スコッチウイスキーを語るうえで絶対に外せない過去。それは、100年間にわたって続いた「ウイスキー密造時代」です。
- スコッウイスキーはなぜ密造に走らなければならなかったのか?
- 現在のスコッチウイスキーはどのようにして確立された歴史があるのか?
いまでは世界の5大ウイスキーの1つに数えられ、そのなかでも高い人気を誇るスコッチウイスキー。
しかし、スコッチが現在の栄光を手にするまでの歴史は、順風満帆というわけではありませんでした。
イブスター店長かつてのスコッチは、現在のようにオープンなものではなかったんだ
かげに身をひそめてお酒をつくらなければならない、長きにわたる「密造酒時代」があったのです。
そして、夜明けを迎えるまでのその裏では、数々の苦難を乗り越えてきた過去と、はからずも苦境が生んだ偶然の発見がありました。
この歴史を抜きにして、スコッチウイスキーを語ることはできません。
この記事では、スコッチウイスキーの夜明け前にあたる、100年間にわたって続いた「闇の密造酒時代」についてお話しします。


ミナト
元バーテンダー。現在は兼業ブロガーとして活動中。夢は海外放浪の旅にでること、自分のお店をつくること。ブログを通してひとりでも多くの方のお役に立ちたいと思っています。当ブログのコンセプトは「24時間営業の人生の休憩所」。>> プロフィール詳細はこちら
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グレンリベットはスコッチの密造酒時代を語るには欠かせんな。ぜひ飲んでみてほしい
ウイスキー密造時代とそれを強いられた理由


(合同条約/出典:Wikimedia Commons/Articles of Union 1707/PD-old)
スコットランドでお酒をつくる人びとが、なぜ密造に走ったのか。
いや、なぜウイスキーを密造しなければならなかったのか?
その理由は、ウイスキーに対する高額な課税にありました。
1603年、イングランド女王エリザベス1世が死去すると、それ以降のイングランドとスコットランドは、同じ君主のもとで統治されてきました。
しかしイングランドは、もともとは独立した国であったスコットランドを併合したいとかねてから考えていて、あれこれ手を打っていたのです。
ことが動いたのは、1707年。
経済の衰退による格差の広がりなどから、スコットランドでは「統合もやむなし」といった風潮が強まり、ついにはイングランドとの併合を受け入れることを決断。
これによってスコットランド王国は消滅、グレートブリテン王国が成立します。



ところが、いちおうは「平等」ということになっていた合同は、あくまで形式上の建前だったんだ
スコットランドは議会を解散してイングランド議会に吸収されましたが、
- 与えられた議席は、イングランドが513議席に対してスコットランドは45議席(下院、庶民院)
など、あきらかに不利な条件のものだったのです。
そしてこの併合が、のちにお酒をつくる人びとを苦しめていくことになったのです。
酒税の大幅な強化が始まった


スコットランドで初めてウイスキーに対する課税がおこなわれたのは、併合前の1644年のことでした。
しかし併合後の1713年になると、政府はそれまでイングランドでおこなわれていた麦芽税を、スコットランドのウイスキーに対しても適用することを決めます。



議員数でまさるイングランド議会は、スコットランド側の反対を押しきって、なかば無理やり法案を可決させたんですよね
そして、これを皮切りとして、スコットランドのウイスキーに対するたび重なる課税が始まります。
1725年には、酒税は大幅に強化されて重税と化しました。
最低でもそれまでの数倍、一説によると十数倍にまであがったともいわれています。
また、このころまでには、ハイランド地方の農民や氏族は、自分たちの蒸留釜を所有しているなど、ウイスキーづくりは生活の一部となっていたようです。
しかし、それまで低く抑えられてきた麦芽に対する税金が大幅に引き上げられたことで、本格的な暴動(反対運動)が起きるようになっていきました。



徴税官がイングランド側の人間だったのも、それをあと押しする要因の1つになっていたようだな
このあたりから、一気に密造に走る者が増え始めました。
スコットランド人の、反イングランド感情の爆発。
ウイスキー密造時代全盛期への、きざしが見え始めた瞬間でした。
ジャコバイトの乱とハイランド文化の弾圧


(ジャコバイト/出典:Wikimedia Commons/Pettie Jacobites/PD-ART-LIFE-70)
時はさかのぼること1688年、イングランドでは「名誉革命」が起こります。
当時のイングランド王だったステュアート朝ジェームズ2世は王位を追放され、新国王体制が誕生しました。
しかし、それと同時に、「ジャコバイト」という一派も生まれました。
このジャコバイトは、
追放された王こそが正当な国王である
との主義をかかげる反革命勢力をいいます。
ジェームズ2世ならびにその家系を王にするべきだとして、政治・軍事的運動(ジャコバイト運動)をおこなっていた勢力です。
支持基盤は、フランス・アイルランド・イングランドにもあったようですが、最大の支持基盤となっていたのはスコットランド。
なかでも、ハイランド地方が最も強力な基盤となっていました。
というのも、もともとスコットランドには、イングランドに対する根深い対立意識があったことに加え、
- ステュアート家がスコットランド出身だったこと
- 不利な条件でも飲まざるをえなかった併合が「屈辱的なできごと」でもあったこと
- 経済を優先させたというのにその効果がすぐにみられないこと
など、イングランドに対する不満がつのっていたからです。
そしてジャコバイトは名誉革命以降、たびたび反乱を繰り返してきたのですが……。
ある事件によって、ジャコバイトの目的は完全に絶たれてしまい、さらにはその事件によって、密造も急加速していくこととなったのです。
カロデンの戦いと屠殺者カンバーランド


(カロデンの戦い/出典:Wikimedia Commons/The Battle of Culloden/PD-ART)
ジャコバイトにとっては5回目の挑戦となった1745年に起きた反乱。
ジェームズ2世の孫であるチャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王、小僭称者)が、フランスのあと押しを受けて決起したものでした。
チャールズ若僭王(せんおう)は、ハイランドを中心に味方をかき集め、スコットランドの首都であるエディンバラを占拠。
進軍の勢いは止まらず、ついにイングランド本土に上陸します。



ところが、本土上陸後、補給問題などからジャコバイト軍の士気が低下してしまったんだ
ハイランドまで撤退を余儀なくされ……。
すると、そこでジャコバイトは、イングランド軍に致命的な敗北を喫してしまうことになるのです。
それが、長きにわたる戦いに終止符を打つこととなった、ジャコバイトの乱最後の戦い、「カロデンの戦い」でした。
1746年に起きたカロデンの戦いは、ハイランド地方のカロデン湿原で起きたものでした。
撤退から態勢を立て直すことができなかったジャコバイト軍は、圧倒的な火力と、精鋭によって構成された政府軍に完敗。
反乱は完全に鎮圧されることとなってしまったのです。
そして反乱の鎮圧後に待っていたものは、まさに地獄のようなものでした。
のちに「屠殺者(人)カンバーランド」という異名で呼ばれることとなる、政府軍を率いたカンバーランド公(ウィリアム・オーガスタス)。
彼は戦闘終了後、負傷して動けなくなったジャコバイト軍の負傷者や捕虜を、誰一人残さずに処刑しました。
敗走した残兵にも慈悲など与えず、熾烈極まる捜索の末捕らえていき、
ある者は処刑、ある者は投獄、ある者は奴隷……
と、3000人を超える残兵に容赦のない処罰をくだしていきました。
それは、ジャコバイトの力がおよんでいた地域の、非戦闘員や家畜に対してもおこなわれたといわれています。
さらに処罰はこれだけにとどまらず、この反乱を重く見た政府は、スコットランドの氏族制度を解体。
ハイランドの人びとに対し、
- 伝統衣装の着用禁止
- 公用語であった「ゲール語」の使用禁止
- その他のハイランド伝統文化のいっさいを禁止
とし、さらには、ウイスキーづくりの規制強化までおこなわれることとなったのです。
誇り高きハイランドの人びとはこれにおおいに憤慨します。
イングランドに対する反感もあいまって、ウイスキーの密造はさらに加速していったのです。



現代でも時々スコットランド独立の機運が高まるのは、こういった過去も関係しているようです
密造酒時代の全盛期とウイスキーが手に入れたもの


ジャコバイトの反乱を鎮圧したあとも、政府はウイスキーづくりに対して、課税・規制を次々と強化していきました。
- 私的な蒸留は禁止され、
- 密告者には報酬金が支払われる制度をつくりあげ、
- 蒸留器の容量に対する課税も段階的に強化、
ついには蒸留器の大きさに対する規制(500ガロン:2270L以下の蒸留釜の使用は禁止)まで入ります。
ハイランド地方の人びと、とくに小規模業者に残された道は、もはや密造しかありませんでした。
イングランドからの徴税官の監視がきびしいのは、地理的に(イングランドとつながっている)ローランド地方でした。
そこで彼らは、持ち運び可能な小さな蒸留器を手に持ち、人里離れたハイランドの山あいに身を隠し、ひそかに蒸留を始めたのです。
密造酒を取り締まる徴税官の、目を盗みながら。



こうして、密造時代の全盛期は幕を開けることとなったんだ
ところが、くしくも、そこで彼らは出会ったのです。
良質な大麦、豊かな山の清流、燃料として豊富なピート、そして「樽」と。
ハイランドの山あいは、徴税官から身を隠す絶好の場所でありながら、ウイスキーづくりに必要な材料がすべてそろいました。
密造者は、保管や輸送のためにこの空き樽にウイスキーを詰め、徴税官からウイスキーを隠すことができたのです。
そして、この偶然の一致が、新たな発見を生み出しました。
徴税官の急襲、血で血を洗う争いにそなえるなどして樽を隠した密造者が、時を経て数年後に樽のふたを開けてみると……。
なんと、もともと透明だった色のウイスキーは琥珀色に輝き、芳香な味と香りを身につけていたのです。
絶好の隠れ家、良質な大麦、清涼な水と空気、豊富なピート、そして熟成樽。
これらの偶然が重なることで生まれた発見によって、密造酒時代には、多くの製法が確立されていきました。
スコッチウイスキー受難の時代は、かくして現代の製法へと受け継がれる、ウイスキーづくりの礎となっていったのです。



スペイサイド地方に蒸留所が密集しているのも、当時はスペイサイドが絶好の密造ポイントだったという背景が関係しているんですよ
酒税法の改正、密造酒時代の終焉


(現在のグレンリベット蒸留所/出典:Wikimedia Commons/The Glenlivet distillery/Author:Kkonstan)
さて、その後も、密造者の密造と徴税官の取り締まりはいたちごっこと化していました。
いくら取り締まりを強化してもいっこうに減らない密造者……。
これに、イングランド政府とハイランドの有力者(スペイサイドの領主であり、ハイランド地方にくわしかった、ゴードン公アレクサンダー)のあいだでは、方針の変更が必要との認識が高まります。
そして1823年、ついに政府は酒税法の改正に踏み切りました。
これによって、ウイスキーの税率は大幅に下げられ、年間10ポンドの免許料を支払えば、誰でもウイスキーの製造が可能となったのです。
その翌年には、政府公認第一号の蒸留所「ザ・グレンリベット蒸留所」が誕生。
改正された法律のもとで最初に免許を取得したのは、ジョージ・スミス(グレンリベット蒸留所の創始者)だったことは広く知られています。
当初は法律の改正に反対する密造者も少なくはなかったといいます。
しかしこれに続いて、次々と政府公認の蒸留所が誕生していき……、しだいに密造者は、すがたを消していくこととなりました。
こうして、イングランドとの併合によって始まった100年以上にわたる密造酒時代は終焉を迎えます。
ウイスキーづくりは、それまでの農家の副業的な生産から、スコットランドを代表する一大産業へと変わっていくこととなったのです。
今回のまとめ
- スコッチの密造は高額な課税と規制によって始まった
- スコッチは血で血を洗う争いのなかで生まれた偶然の産物
- 密造酒時代にスコッチウイスキーの製法が確立された
「ウイスキーといえばスコッチ、そのなかでもシングルモルトがいちばんだ」
という人も多いように、現在ではスコッチウイスキーは、不動の地位を確立しています。
しかしその裏では、手放しには喜ぶことができない過去もありました。



けれども、「弾圧・規制・取り締まり」などに屈することなくお酒をつくり続けてきたからこそ、だ
密造者たちにとっての夜は明け、彼らと、そしてウイスキーは日の目を見ることができたのです。
また、スコットランド出身の詩人ロバート・バーンズは、密造酒に対するものではないものの、密造酒時代にこのような詩を詠みました。
「自由とウイスキーは共に進む、諸君杯を上げよう!」
ウイスキーがそばにあれば、いつの時代でも、明けぬ夜などない。
自由とともに、ウイスキーとともに、私たちも前へと進んでいきたいですね。



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