スコッチウイスキーを語る上では絶対に外せない過去がある。そう、100年に渡って続いた密造酒時代だ!
今では世界の5大ウイスキーの1つに数えられ、その中でも高い人気を誇るスコッチウイスキー。
しかし、スコッチが現在の栄光を手にするまでの歴史は何も順風満帆というわけではありませんでした。夜明けを迎えるまでのその裏では、数々の苦難を乗り越えてきた過去と、図らずも苦境が生んだ偶然の歴史があったのです。
この歴史を抜きにしてウイスキーを語ることはできない!これはスコッチウイスキーの夜明け前、100年間に渡って続いた闇の密造酒時代。
密造酒時代とその理由
そもそもなぜウイスキーを密造しなければならなかったのかと言うと、その理由はウイスキーに対する高額な課税にありました。
スコットランドで初めてウイスキーに対する課税が行われたのは1644年のことでしたが、1707年になると元々独立した王国だったスコットランドは不利な条件でイングランドに併合されることとなり、これによってスコットランド王国は消滅、グレートブリテン王国が成立します。
すると1713年、政府はそれまでイングランドで行われていた麦芽税をスコットランドに対しても適用するようになり、これを皮切りとして、スコットランドのウイスキーに対する度重なる重税が始まりました。
特にこの頃までには、ハイランド地方の農民や氏族は自分たちの蒸留窯を所有しているなど、ウイスキー造りは生活の一部となっていたようですが、それまで低く抑えられてきた麦芽に対する税金が大幅に引き上げられたことで暴動が起きるなどし、一気に密造に走る者が現れたと言います。
ウイスキー密造時代への兆しが見え始めた瞬間でした。
ジャコバイトの乱とハイランド文化の弾圧
時は少し遡ること1688年、イングランドでは「名誉革命」が起こり、当時のイングランド王だったステュアート朝のジェームズ2世は王位を追放され、新国王体制が誕生したのですが、それと同時に、追放された王こそが正当な王であるとの主義を掲げる「ジャコバイト」という反革命勢力が生まれました。
そしてこのジャコバイト、なんと最大の支持基盤はスコットランド、特にハイランド地方にあったのです。
と言うのも、元々スコットランドにはイングランドに対する根深い対立意識があったことに加え、ステュアート家がスコットランド出身だったこと、さらにはイングランドに併合された際の圧倒的に不利な条件に対する不満もあったからです。
ジャコバイトは名誉革命以降、度々反乱を起こしてきたのですが、来たる1745年、長きに渡る戦いに終止符を打つこととなったジャコバイトの乱最後の戦い、「カロデンの戦い」でジャコバイトはイングランド軍に致命的な敗北を喫します。
反乱の鎮圧後、負傷者や捕虜は斬首刑に処され、敗走した残兵も熾烈極まる捜索の末捕らえられ、ある者は処刑、ある者は投獄、ある者は奴隷と、3000人を超える残兵に容赦のない処罰が下されました。
さらに処罰はこれだけに留まらず、この反乱を重く見た政府はスコットランドの氏族制度を解体。ハイランドの伝統衣装の着用禁止や、公用語であった「ゲール語」の禁止、その他にもあったハイランド伝統文化の一切を禁止とし、ウイスキー造りの規制の強化まで行われることとなったのです。
誇り高きハイランドの人々はこれに大いに憤慨し、イングランドに対する反感も相まって密造はさらに加速していったのです。

現代でも時々スコットランド独立の機運が高まったりするのは、悲しい過去も関係しているんだ
密造酒時代の幕開け、そこでウイスキーは“色”を手に入れた
その後も政府はウイスキー造りに対して課税・規制を次々と強化。
蒸留器の大きさに対する規制や、生産量に対する規制、最終的には私的な蒸留も禁止となり、ハイランド地方の人々、特に小規模業者に残された道はもはや密造しかありませんでした。
彼らは持ち運び可能な小さな蒸留器を手に持ち、人里離れたハイランドの山あいに身を隠し、密かに蒸留を行い始めたのです。密造酒を取り締まる徴税官の目を盗みながら。
こうして密造時代は幕を開けることとなったのですが、奇しくもそこで彼らは出会ったのです。良質な大麦、豊かな山の清流、燃料として豊富なピート、そして「樽」と。
ハイランドの山あいは徴税官から身を隠す絶好の場所でありながら、ウイスキー造りに必要な材料が全て揃い、何よりも、当時イングランドには大量に輸入されていて身近にあったシェリー酒の空き樽があり、密造者は保管や輸送のためにこの空き樽にウイスキーを詰め、徴税官からウイスキーを隠すことができたのです。
そしてこの偶然の一致が新たな発見を生み出しました。
徴税官の急襲に備えるなどして樽を隠した密造者が、時を経て数年後に樽の蓋を開けてみると、元々透明だった色のウイスキーはなんと琥珀色に輝き、芳香な味と香りを身に付けていたのです!
絶好の隠れ家、良質な大麦、清涼な水と空気、豊富なピート、熟成樽。
これらの偶然が重なることにより生まれた発見によって、密造酒時代には多くの製法が確立され、そしてそれは現代の製法へと受け継がれる、ウイスキー造りの礎となっていったのです。

スペイサイド地方に蒸留所が密集しているのも、当時はスペイサイドが絶好の密造ポイントだったという背景が関係しているぞ
ハイランドとスペイサイドの位置関係はこちら
→【シングルモルト】スコッチウイスキーの生産地区分とエリア毎の特徴
密造酒時代の終焉
その後、密造者の密造と徴税官の取り締まりはいたちごっこと化し、いくら取り締まりを強化しても一向に減らない密造者に、イングランド政府とハイランドの有力者の間では方針の変更が必要との認識が高まり、1823年ついに政府は酒税法を改正。
これによりウイスキーの税率は大幅に下げられ、年間10ポンドの免許料を支払えば誰でもウイスキーの製造が可能になりました。
翌年には政府公認第一号の蒸留所「ザ・グレンリベット蒸留所」が誕生。これを皮切りに次々と政府公認の蒸留所が誕生していき、次第に密造者は姿を消していきました。
こうしてイングランドとの併合によって始まった100年以上に渡る密造酒時代は終焉を迎え、ウイスキー造りはそれまでの農家の副業的な生産から、スコットランドを代表する一大産業へと姿を変えていくこととなったのです。
今回のまとめ
・密造酒時代にスコッチウイスキーの製法が確立された
・誇り高きハイランドの声を聞くべし
現在ではスコッチウイスキーは不動の地位を確立していますが、その裏では偏に喜ぶことができない過去もありました。
しかし、弾圧に屈することなく酒を造り続けてきたからこそ密造者たちにとっての夜は明け、彼らと、そしてウイスキーは日の目を見ることができたのです。
心を無にした状態でスコッチを一度口に含めば、彼らの声を聞くことができるかもしれません。明けぬ夜などないと……。
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