【混用】常体と敬体は混ぜるな問題を解決するカギは「レトリック」にあり

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敬体の中に常体は絶対に混ぜてはいけないの? とお悩みの方に言いたい。その問題はレトリックが解決してくれると。

文章を書くに当たって、文体はデス・マス調と呼ばれる「敬体(丁寧体)」か、ダ・デアル調と呼ばれる「常体(普通体)」のどちらかに統一し、両方を混ぜて使用するのは基本的に避けるべきだとされています。

そのため、ひとたびこの原則を破ろうものなら、読みづらいとか、それはおかしいとか、場合によっては結構なことを言われてしまうこともあるわけですが、果たしてそれは本当にそうなのでしょうか?

実際のところ、作家・文筆家が書いた文章でも敬体と常体が混ざっている部分はよく見受けられます。ただ、これは意味もなく混ぜられたものではありません。文章の中で水と油を混ぜる技法、「レトリック」という技が用いられているのです。

そして、この「レトリック」にこそ、常体と敬体は混ぜるな問題を解決する糸口はあります。

目次

敬体と常体を混ぜるな問題

Web媒体のブログや小説でも、紙媒体の記事や本でも、日本語表記のルールとして大前提にあるのが、文体はデス・マス調子の敬体(丁寧体)か、ダ・デアル調子の常体(普通体)のどちらかに統一し、基本的に両者は混ぜない、というものです。

この理由は単純で、意味もなく敬体と常体が混在していると、文章のリズムが乱れ、読みづらさがストレスとなり、次第に訳がわからなくなってくるからです。

これはあえて例を挙げるまでもないでしょう。とにかく、敬体・常体の混用文は読みづらいのだ。このようにいきなりテンポが変わるからです。意味のない混用とはこのようなものである。かなりわざとらしいですが、そして挙げるまでもないと言っておきながらが、これでおわかりいただけたでしょうか?

ただし、これにも例外があり、主に以下のような場合は敬体と常体が混ざっていても問題はありません。

  1. 敬体の文の途中に常体
  2. 敬体の文の箇条書きを常体
  3. 台詞や会話文

これも少し補足すると(1番目)、全体が敬体の文であっても、このように途中が常体になるのは、至って普通ということです。

どう混ざっているかよくわからないという方のためにも、これを全て敬体にしてみると、

これも少し補足しますと(1番目)、全体が敬体の文でありましても、このように途中が常体になりますのは、至って普通ということです。

このようになりますよね。

要するに、混ぜるな混用するなと口酸っぱくいわれている問題ですが、敬体と常体はそもそもかなり混ざっているということです。

こう言うと、いや、そうじゃないだろう、とか、それは例外にもあるし、問題は文末のデス・マスとダ・デアルだろう、と突っ込まれてしまうかもしれません。そこで登場するのが「レトリック」です。

レトリックというのは、修辞法、つまり、文筆家などが使う巧みな表現技法のことで、言葉や表現の職人技のようなもののことをいいます。古代ギリシャの哲学者アリストテレスもこれに取り組み、かつては「弁論術」とも呼ばれていた口頭の技術で、現在は書く技術へと変化してきました。

そしてこのレトリックには、文末を敬体と常体で自由に行き来する力が、混用が認められる第4の例外となる力が秘められているのです。

文末問題は『書くための文章読本』で解決だ!

そもそも敬体と常体はかなり混ざっていることが多く、敬体と常体を混ぜるなというこの問題は、主に文末は敬体と常体を混ぜるな、ということだと思われるのですが、この問題をドンピシャで解決してくれる本があります。

これです。

こちらは瀬戸賢一著の『書くための文章読本』。

著者はレトリック、英語学を専門に豊かな言語表現を研究している言語学者で、ベストセラー『日本語のレトリック』でも知られています。

そして本書は、敬体であれば文末がデス・マスで連続する「スススス」、常体であればダ(タ)・デアルで連続する「タタタタ」「ルルルル」のように、単調になりがちな文末問題を解決し、文章全体が劇的に改善する実践的技巧(レトリック)を示した一冊。

また、それと同時に、敬体と常体混ぜるな問題を解決する一冊でもあるのです。どういうことか、ここからは本書の内容を抜粋してご紹介します。

敬体と文体の混在は普通にある

本書は膨大な参考文献から該当箇所を引き、それらを1つずつ解説する形式で話が進んでいきます。ここでは全てをご紹介することはできませんが、例えば敬体と常体の混交例(文末)では以下のようなものがあります。

「社会」などというものがあるのだろうか? 石を投げれば人間に当たる。「社会」というものの本体は人間であり、社会学は人間学であるのです。……(見田宗介『社会学入門』、岩波新書)書くための文章読本 p.24

見田宗介著『社会学入門』の一節ですが、最初の「だろうか」は心の中での問い。次の「当たる」は自問に対する自答。そして第3文の「です」で読者との対話に向かっていると解説されています。

また、初エッセイ集『父の詫び状』が出てすぐに名品との評判を取ったという向田邦子の「水羊羹」では、プロの技という項目の流れで以下のようなものも。

小学生の頃、お習字の時間に、「お花墨」という墨を使っていました。どういうわけか墨を濃くするのが子供の間に流行って、杉の葉っぱを一緒にすると、ドロドロになって墨が濃くなるというので、先生の目を盗んでやっていましたが、今考えてみますと、何も判っていなかったんだなと思います。(向田邦子「水羊羹」『眠る盃』、講談社文庫)書くための文章読本 p.41

「杉の葉っぱを一緒にすると」では常体、「今考えてみますと」では敬体と、一文の中で敬体と常体が混在しています。直前の「先生の目を盗んでやっていましたが」も敬体ですね。

要するに、文末・文中を問わず、プロの文章でも敬体と常体は混在していることがあるということです。

主体性から見た技法

新人ならともかく、年季の入ったプロの作家でも語尾に悩むことがある。……語尾を書いては消し書いては消す。……これはどんな作家でも大いに悩んだ方がいい。悩んだ末に悟りの境地があります。(筒井康隆『創作の極意と掟』、講談社)書くための文章読本 p.60

つまり、「悟れ」ばいいのです……ということではなく、本書は実践的な技巧を示したものなので、文末問題に深く切り込みます(引用文は最後が敬体となっていることにも注目)。

例えば、「主体性」という項目では、辰濃和男著『文章の書き方』から以下の文章が引用されています。

以前、旅先のホテルでテレビを見ていたら、香港か台湾でのお祭りの様子が映されていました。大きな張り子の竜が人波のうえを流れてゆく。その竜の目の前に白い玉が揺れている。竜は玉がほしくて顔を左右に振る、玉が逃げる、という動作が続きます。……鍵になる言葉とは、この白い玉のようなものだ、とそのとき思いました。書くための文章読本 p.68

「流れてゆく」「揺れている」「振る」「逃げる」。これらは主体性を高めるという技法で、書き手が現場に立ってその場の空気感も含めて実況中継をしているのだそうです。

「白い玉のようなものだ、と」の部分も、敬体に常体を混ぜ込んでいるので注目したい部分です。

引用のレトリック

そして特に参考になったのが、引用のレトリックという項目。井上は銀座をぶらつくのがお好みのようで……

銀座のほどよい混み具合は、理想に近い。ぶらぶら歩きの最大のたのしみは、普通は〈店をのぞき歩くことにある〉と考えられていますが、……ぶらぶら歩きがたのしいのは、歩いている人間がたがいに〈見たり、見られたりする〉せいではないでしょうか。とくに人間を行き交いざまにちらっと見るたのしみを、私は人間の基本的な娯楽である、と信じているものですから、渋谷や新宿の、速くて強い人の流れでは、ゆっくりとこのたのしみにふけることはできないな、と軽い不満をおぼえるのです。……あえて〈見る〉というたのしみをつらぬこうとすると、「なんだ、テメェ、眼をつけやがって」と凄まれるおそれがあります。(井上ひさし『銀座礼讃』中公文庫)書くための文章読本 p.175

まずは「なんだ、テメェ、眼をつけやがって」の部分。著者はこれを直接引用と呼び、この技を使うことで、品の悪い連中も大手を振って道の真ん中を歩ける、としています。

さらに、そのインパクトに隠れてしまいそうですが、見落としてはいけないのは「基本的な娯楽である、と」であったり「たのしみふけることはできないな、と」などの「と」が浮上する部分。

こちらのほうは間接引用と呼ばれ、これによって引用の元となる発言なり思いなりを、自分の言葉で自在に取り込むことができるのだそうです。

「と」の前が常体になっている部分があること、最初の「理想に近い」が常体になっていることもお忘れなく。

若い読者に向けたサービス精神もあり

また、ベストセラーとなった『日本語のレトリック』では、著者は若い読者を念頭に置き、できるだけ親しみやすく、言葉を選んで文を連ねたそうで、本書もそういった工夫が凝らされているように感じました。

例えば、誰もが知るであろう、あのアニメのタイトルについては、こんな話も。

「となりのトトロ」を表現面から考えるのもおもしろい。人気の根っこはアニメそのものにありますが、タイトルにも人気の秘密があるように思えてなりません。ポイントは「となり」。いったい誰のとなりなの。書くための文章読本 p.77

これも興味深い話ですが、文が「なの」で止められている文末表現もアツい。

かたや人の膵臓を食べたがる小説の主人公がいる時代ですから、バッタに心だけではなく、肉体も捧げる博士がいても不思議ではない。書くための文章読本 p.183

個人的には膵臓を食べたがる主人公よりも、バッタ博士が気になるところですが、これも文末が常体となっているのは見逃せないところです。

読者を飽きさせない話の展開、豊かな文末表現の連打。読み始めたらいつの間にか読み終わっていました。いや、面白い一冊でした。

総評&今回のまとめ

・敬体と常体は普通に混在することはある
・レトリックの技巧を使うことで混用は可能に
・混ぜるな問題でお悩みの方は一読の価値あり

文字数の関係で本の内容は一部しかご紹介することができませんでしたが、それでも敬体と常体が混ざっていることは絶対的なタブーではないことはおわかりいただけたと思います。

引用されているのが敬体と常体の混交文だけではないのか、という指摘もあるとは思いますが、この文末問題は名だたる文豪も気づいていた、指摘していたと本書の中で述べられているので、この問題はやはり昔からあるものなのだと思います。

レトリックはプロが使う技巧でもあるので、簡単に身に付くようなものではないと思いますが、ひとまず敬体と常体を混ぜてはいけないという呪縛から完全に解放されたのは大きいと感じました。私と同じようにモヤモヤしていた方はぜひ。

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コメント(確認後に反映/少々お時間をいただきます)

コメント一覧 (2件)

  • 敬体と常体の混在について調べているうちに辿り着きました。
    エッセイについては混在が受け入れられやすいイメージがあるのですが、これは語り手が書き手(実在する人間)であり、その人が喋っているように捉えられるからではないかなと思いました。
    これが三人称視点の小説や人間性を排除する方向性の説明文とかで見かけると、途端にちぐはぐな印象を受けます(一人称の小説は、語り手がそういうキャラクターであるならば個性として納得できます)。
    どこまでも個人の感想ですが、やっぱり書かれたものが何であるかで、混在が許される、許されないというのはあるんじゃないかなと思いました。

    • たしかに「書かれたものが何か」など、媒体による一定のレギュレーションはあると思います。
      (※人それぞれ考えはあると思いますが、たとえばブログなんかのWeb媒体は、わかりやすさ・違和感のなさが大事だと感じます)
      今後もいろいろ本を読むなどして勉強したいと思います。コメントありがとうございました!

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