過去を清算するための謝罪や懺悔は、自己満足だけで終わる危険性がある

人に謝りたいことがたくさんあると思い詰めてしまいますが、これに関しては頭で考えるよりも、体を動かしたほうがいいかもしれません。

誰しも生きていれば1つや2つの過ちは犯すものですが、それは年を取ってくるとだんだんと罪の意識に変わり、私たちの背中に重くのしかかってきたりもします。罪の意識にさいなまれると、相手に対して許しを請いたくなってきたりもします。

しかし、ここで忘れてはならないのが、その謝罪で本当に相手は救われるのか? その懺悔はただの自己満足なのではないか? ということでしょう。

この問題は、過ちの大小は当然のことながら、自分と相手との関係性を広げれば広げるほどむずかしい話になっていきます。そこで、今回はより近い関係性、家族や身内などに限定して、この問題を解決するにはどうすればいいのかを考えてみたいと思います。

重くのしかかる罪の重圧

私はこれまで、騙され、人に利用され、心に多くのダメージを負ってきましたが、それ故に、自身が心ない言葉で人を傷つけ、人に嫌な思いをさせてしまった過去を強く認識するようになり、自分の犯した過ちを背負って生きています。

この罪の意識とは非常に苦しいもので、自然と消滅するものではありません。なにかをきっかけにふと思い出すと、強い後悔に襲われ、人知れずうめき声を上げることぐらいしかできません。

だからこそ、人は教会などへ行って懺悔し、神に許しを請い、「私はこれで許されたんだ」と、スッキリしたくなるのかもしれません。

ただ、その罪の意識を抱く対象が、現在も普通に会うことができ、話すことができる家族や身内だった場合はどうでしょうか。

重い腰を上げて謝ろうと思えばいつでも謝れる。ちょっと謝罪の言葉を口にするだけで、すぐに罪の意識から逃れることができるかもしれません。

この家族という関係性で言えば、私の場合は特に、弟に対してその思いがあります。

小さいころはつまらないことで喧嘩したり、必要とされていたときに傍にいてやることができなかったりと、決して見本になるような兄ではなかったと思います。しかも、弟をギャンブルの世界に引きずり込んだのも私です(ちなみに、弟は依存症にはなりませんでした)。

いつか謝ろう、私が覚えていることを懺悔しよう。これまで私はずっとそのように考えていました。謝罪するタイミングを見計らっていたのだと思います。

ところが、その謝罪は本当に正しいことなのか? と思わせる出来事があり、私はどうすればいいのかわからなくなってしまったのです。

懺悔が生む新たな心の傷

以前、話したいことがあると母から呼び出されたことがありました。どうやら母も私に対して謝りたい、というか、誤解を解きたいと思っていたことが前々からあったらしいのです。

私がまだティーンエイジャーだったころ、「自分は存在するべきではなかった」のようなことを私は口にしたそうです。

ちょうど私の人生に闇が降りてきたあたりの話でしょう。母は、私がそのような発言をしたのは自分がした話に原因があると思っていたようで、もし今もそのようなことを思っているのであれば、そんなことはない、と伝えたかったようでした。

私は、これによって新たな罪を背負いました。親にそんなことを、言ってはいけないようなことを言ったことがあったのかと。ただ、ここで重要なのは、そのような発言をした記憶が私には一切ないのです。

母は、これによって心にかかっていたモヤを取ることができたと思います。しかし、私の心には新たなモヤがかかりました。

謝罪が自己満足で終わる可能性

母が私にしたのと同じように、私が心のモヤを取り払うため、弟に謝罪することにしたとします。

しかし、この話の流れでいくと、記憶にないことを謝罪された弟には、知らなくてもよかった新たなモヤがかかる可能性が。しかも弟より下はいないため、私の弟は完全に取り払うことができないモヤを抱えてしまう可能性が出てくるのです。

要するに、私が前々から謝りたいと思っていたことは、自己満足で終わる危険性があると思われたのです。

それでは、人を苦しみの中に閉じ込め続けるこの罪の意識はどうすればいいのか。謝罪したくてもしないほうがよさそうな場合はどうすればいいのか。

私は、これはもう態度や行動で示していくしかないと思います。

疎遠になっているのであれば少しずつ歩み寄っていくしかないと思いますが、現在も普通に会うことができたり、話したりすることができるのであれば、過去の過ちを悔い、相手の幸せを願い、それを行動にして示していくしかない。

例えば、離れて暮らしていたとしても、時々連絡をしたり、なにか美味しい物を送ったり、会いに行ってみたりと、できることはいくらでもあるはずです。

そして、そういったなかで、もしもタイミングがあったのであれば、少しジャブを打ってみるのもいいかもしれません。相手が覚えていそうなことであれば、そのときにこそ謝るのがいいのではないか、と思ったわけです。

謝罪の言葉はいくらでも並べることができます。ただ、本当にむずかしいのはそれを態度にして示し続けることです。それが、罪を背負った者が相手に対してしなければならないことであり、過ちを犯した報いなのかもしれません。

今回のまとめ

・謝罪や懺悔は自己満足で終わる可能性がある
・覚えていない相手には新たな傷を負わせる危険性もある
・態度や行動で示すのがいいのではないか、という話です

結局のところ何が言いたいのかというと、懺悔の気持ちを抱え続け、それに悩まされ続けているのであれば、負のエネルギーを変換してでも行動に移したほうがいいのではないか、ということです。

やはり大事なのは行動することだと私は思います。行動を続けていくうちに相手も相手で、昔とは変わったなと、逆にこちらが覚えていないような過去の行いも許してくれるかもしれません。

お互いの関係性によってはむずかしい話でもあるとは思いますが、忘れてはならないのは、自分の苦しみ以上に、そのときの相手は苦しい、寂しい、嫌な思いをしたかもしれないということ。懺悔の道のりは長い。

スポンサーリンク
この記事をシェアする

コメントを残す