可能性が人に見せる未来は、輝かしい成功の到達か、夢破れる失敗の終焉か

希望と絶望の混在である「可能性」が導くのは、成功をつかみ取る未来か、夢なかばにして倒れる失敗の人生か。

先日、敬愛するバーのマスターが現場を退くということで、これまでお世話になったお礼を伝えるためにお店に伺い、私たちはそこで、お互いの今後の「可能性」について話し合いました。

今後の可能性。私は現在、自身の未来を切り開くため、可能性だけを見て日々精進しているところですが、この可能性というものは、人に明るい未来を指し示してくれる希望の光であるとともに、人を奈落の底へと突き落とす、絶望の道しるべでもあると思います。

はたして、これを追い求める者が到達するのは、天国なのでしょうか、それとも地獄なのでしょうか。今回は、まったくの正反対の性質を併せ持つ「可能性」について、私が思うところをお話ししたいと思います。

すべての希望が叶うほど世の中は甘くはない

私たち人間は、少なくとも1つはなにかしらの希望を持っている、持っていたはずだと思うのですが、こういった希望を追い求める人には大きく分けて、2つの未来が用意されていると思います。

1つ目は、希望をみごとに叶えることに成功し、目標地点に到達する未来。そして2つ目は、希望を追い続けるも目標地点には到達できず、夢なかばにして散っていく未来です。

すべての人が持つ希望、とりわけきれいなものが叶えば、世の中はもっと平和になるかもしれません。しかし、世の中というものは、残念なことにそこまで甘いものではないのです。

いわゆる「成功者、夢を叶えた人」というのはほんのひと握りで、おそらく、大半のドリーマーたちは無残にも散っているのが現実だと思います。だからこそ、現実離れしたという意味を持つ「夢」という言葉が使われるのだと思うのですが、とにかく、夢を叶えるまでの道のりというのは険しく、やたらと長いのです。

さて、私にも追い求める目標や希望というものがあるのですが、用意されている2つの未来は、すでになんとなく見えています。

1つ目は、やりたいことを1つずつ叶えていき、最終的には自分の城(店)をつくり上げ、人々を世の苦しみから解放していく未来。

2つ目は、やりたいことをなに1つ叶えることもできず、ただ年を食って中高年となり、「おれも若いころは夢を追っていたが、あんなものはクソくらえだ。見ろよ、これが現実だ、夢なんて見るもんじゃないよ」と、場末の酒場でよれた服を身に付け、昼下がりから未来ある若者に対してくだを巻く、夢破れた人となる未来です。

これはなにもおおげさな話ではありません。私がやっていることがなにも実らず、心が絶望に侵食されてしまえば、おそらくそうなるだろうと思っています。

しかし、どのような未来が用意されていようとも、これだけはいえるということがあります。世の中に存在する、夢や希望を叶えた人というのは、成功地点に到達するまで、けっしておのれが持つ可能性を捨てなかったということです。

純潔なおとめのなかで眠る可能性の獣

夢を叶えて成功をつかみ取るも、夢を追い続けたことで暗然とした生活を送ることになるも、すべては「可能性」が人に未来を見せるから、「可能性」が人の未来を変えるだけの、大きな力を持っているからだと思います。

ところで、この可能性については、とある一節を抜きにしては語れません。オーストリアのドイツ語詩人、ライナー・マリア・リルケの詩です。

おお、これは現実には存在せぬ獣。
人々はこれを知らず、それでもやはり愛してきた、
――そのさまよう様を、その姿勢を、その頸(くび)を、
そのしずかな瞳の輝きを――。

本当にはいなかった。だが人々がそれを愛したということから
純粋無垢(むく)の一匹の獣が生じた。人々はいつも余地をあけておいた。
その澄明(ちょうめい)な、取っておきの空間の中で
その獣は軽やかに首をもたげ、ほとんど

存在する必要すら持たなかった。人々は穀物ではなく
いつもただ存在の可能性だけでそれを養った。
それがその獣には大きな力となって、

獣の額(ひたい)から角(つの)が生まれてきた。一本の角だった。
一人の処女(おとめ)のもとへ、それは白じろと近寄って来た――
そのときそれは銀(しろがね)の鏡の中に、また処女の中に真実な存在を得ていたのだった。リルケ詩集 p158-159 『オルフォイスに寄せるソネット』 第2部4

この可能性によって生まれた獣というのは、かつてはその存在が信じられた、非常にどう猛でありながらも、純潔なおとめにだけは気を許し、その角には毒を無力化する力があるとされた伝説上の一角獣、「ユニコーン」のことを指しています。

そして、このリルケの有名な一節を、まことに都合よく解釈すると、このようにいえるのではないかとも思うのです。

人の夢を見続ける余地、その力こそが可能性の獣を生み出し、純真な心を持ってさえいれば、その獣は可能性の力を人に与え続けてくれる。しかし、ひとたび腐ってしまえば、処女以外は喰い殺してしまう獣は暴れて姿をくらまし、可能性と解毒の力を失った心は絶望に侵され、しだいに穢れていってしまうのだと。

ようするに、現実離れした夢にふれられるかどうかは、可能性の獣を心のうちに飼い続けることができるかどうか、信じ続けることができるかどうかではないか、と私は思うのです。

完全に諦めるのではなく、規模を縮小すればいい

しかしながら、世の中というものはそう甘くはないので、信じ続ければ夢は叶うのかというと、かならずしもそういうわけではありません。

それならば、もう不可能だと感じたら、あとは諦めて腐るしかないのか? というと、そういうわけでもないと思います。

では、詰まってしまったときはどうすればいいのでしょうか。そんなとき私は、夢の規模を縮小していけばいいと考えています。

たとえば、私たちは世界征服という大きな野望を抱いたとします。しかし、これはまぁむずかしいでしょう。というか、ほぼ無理だと思います。

ただ、野望の規模を縮小して、どこかの国の一画を征服する(家を建てる)ことならできるかもしれません。それがむずかしければ、どこかの国の一画、その一部を征服する(マンションなどの一室を買う)くらいであれば可能かもしれません。

私の場合でいえば、定休日のお店を間借りしたり、自宅のなかに店らしきものをつくって、オンラインで開店なんてこともできたりするわけです。

そのようにして、夢や思い描いているものに手が届きそうになければ、完全に諦めてしまうのではなく、少し規模を縮小していってもいいのではないかと私は思います。夢の規模やグレードが落ちたとはいえ、それでも、叶えられる可能性は上がったわけですから。

そしてそれが叶ったら、そのあとはさらに上を目指すもよし、そこで満足するもよしでしょう。大切なのはやはり、腐らず、諦めず、つねに前向きでいることだと私は思います。

今回のまとめ

・世の中は甘くはない、というかむしろ、厳しい
・可能性の獣は純潔な心のなかに宿るのかもしれない
・夢や希望のグレードを落とすのもあり

世の中は、思ったようにはいかないことが多く、むしろ、そうなるほうが圧倒的に多いと思うのですが、なにがあっても腐ってはいけないと、私は常日ごろから思うようにしています。

そして、時には諦めることもやはり必要ですが、そんなときは方向転換してみたり、規模を縮小してみればいいのではないかという話です。結局のところ、諦めたらそこで終わりというのは、覆りようがない事実だと思いますから。

私が城を築けるか、それとも場末でくだを巻く酒飲みとなるか、それはおそらく、数年後、もしくは十数年後にはあきらかになると思いますが、後者のようになってしまわないように、私は自分の持つ可能性を信じ続けたいと思います。

当ブログが悲哀に満ちた内容ばかりになってきたときは、私は獣に喰い殺されて終わったのだと思ってください。

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